走りだせ〜
産後10ヶ月が経ちました。
育休中というものの、友人や弟の結婚式に叔母の死別に、何のための休業だったのか途方に暮れる時があります。
冠婚葬祭と交通費で貯蓄が消えたんじゃないかってくらい。
凄まじい移動のせいかお肉も消えたよ(笑)
ちゃんと娘と向き合えたのかな?
離乳食の進め方もあってるのかな?
育児日記、毎日書けなかった!
家も服も散々汚したな…
なーんて、考えながら10ヶ月が経って、保育所が決まって、復帰に備えて面談へ…
すくすく育ってくれたから、保育所へも通えるし、職場復帰もできるんだよね。
この1年、働く以上に濃かった!!!
調べたら前厄じゃないの( ゚д゚)⁈
このまま復帰に向かって大丈夫なのか⁈
徒歩10分の保育所に抱っこ紐で通う姿は、車社会の地域ではかなりのレア者(笑)
そして、その足で最寄り駅までまた歩き、通勤シュミレーション…
その途中でランナーさんやジョガーさんを見ると、4月5月はマラソンシーズンだし、大会でも出ようかな、と思ったものの参加可能な大会が叔母の四十九日と重なりあえなく断念…
暖かくなってきたし、気持ちも切り替えて、ひさびさに走りに出てみますか!
距離やタイムの目標はないけど、すんごい走りたい衝動にかられてます。
さすがにジョギングスタイルで登園したら、ツッコミどころ満載かね〜( ̄^ ̄)
子どもを産んでも、性格は変わらない。
ははー、私は私でしかなかった(笑)
物は少ない方がいい
叔母とのお別れから、じき1ヶ月が経とうとしています。
公営住宅に住んでいたので、最長3ヶ月で明け渡しをしなければいけません。
タンスや家電といった大きい物から針やボタンといった小さい物、趣味だったガーデニングですくすく育った植物たち…
これらの行方を決めてあげなければいけません。
しかし…
ホントに1人で住んでたのか⁇というほど、物に溢れています。
既製品やらお手製やら、生地から糸まで!
私の手先が器用で裁縫が得意だったら頂戴しますとも。
枕元には断捨離関連の本があったので、これから取り掛かる予定だったのかな^_^;
残された物品を一つ一つ手にとって、新しい行先を与えてあげるのは、思った以上に進まないですね。このまま保存してあげたいくらいです。
残された方が辛い。
四十九日までは、このままをキープする予定です。
服飾の仕事に就いていただけあって、手持ち服や飾りなんかにもセンスが光ってます(´ω`)
形見分けっていうんですか。
私も何点か分けてもらおうと思っています。
ただ、私は姪という立場なので、大きな声でアレ欲しい!コレ欲しい!とも言えないですし、家族も私の物の少なさは知ってると思うので、一番最後に選ばせてもらいます。
おそらく植物かな?
かえって姪という立場なだけあって、目につくところがでてきました。
叔母は独身でしたので、配偶者や子はおらず、父母(私からだと祖父母)も他界しています。となると法定相続人は、兄弟(私の母)です。
残された者は、短時間で誰に連絡をすればいいのか、残された金品はどうすればいいのか全てをはぐって糸口を見出していきます。
最後の最後まで、生きる意思があったので遺言は残されていませんでした。
携帯電話の連絡帳や履歴、手帳、財布や通帳…
整理整頓はされているんですが、何をどうすればいいのかサッパリで兄弟は困惑しています。
銀行は凍結されたため、今後の引き出しには相続人全員の署名捺印が必要です。
遺産トラブルに発展する可能性もでてきました。
そして家の物品は、明け渡しまでのリミットである最長3ヶ月、なおかつ四十九日以降ともなれば実際は1ヶ月そこらで片付けをしないといけません。みんながみんな鍵を持っているわけでもなく、平日に動けない人が大半なので、週末にとなると、5月の毎週末には業者や宅配の手配をしないといけないわけです。
その作業を60すぎた高齢兄弟が行うんです。
彼らはよく意見も衝突していて、くわえて足腰は思うように動かない…もう大変です。
残された者はジワジワ襲ってくる悲しみをこらえるのに必死で、大量に残された物の処理においついていません。いかにこの状態をキープし続けるかに知恵を振り絞っているようです。
歳のせいなのか顔を会わせばあーだこーだケンカで、計画すら立っていないようです。
後始末や身支度って、自分の年齢に関係なく進めておいた方がいい。
残された者への、せめてもの孝行として。
お別れ
以前、記事をかきました。
退院してから再入院し、叔母はかえらぬ人となりました。
ガンでした。
腹痛や排泄障害を訴えたのが、およそ1年前。内科や胃腸科、婦人科を転々としたそうです。検査といっても結果が伝えられるまで2週間。ようやく原因を突き止めた時には、訴えから1ヶ月は経過しており、婦人科の医師から
「卵巣ガン ステージIII」
宣告されたのは去年の春だったそう。
手術療法・薬物療法(抗ガン剤)・放射線療法がいまの日本の三大ガン治療方です。
まず手術を試みましたが、腸まで転移しており除去不可との判断のため、通院しながら抗ガン剤治療へ踏み切ったのは夏のことでした。
副作用で髪が抜けていくので、ウィッグをプレゼントしました。治療を続けながら、社会復帰してね!と。
しかし、秋も終わりに近づくにつれ、食べ物を口に入れることができなかったようです。自宅で腹痛に見舞われ、入院し再手術を受けました。腸閉塞でした。ステージIIIからⅣへ進行していました。
以降、食べ物を口にすることなく、点滴で栄養をまかない、トイレは可能な限り自力で済ませていました。
と同時に、抗ガン剤治療を続けていくのが困難になり治療は打ち切りに。親族には春までもつかもたないかと伝えられたそうです。
親族と本人からの要望で代替治療ものぞみましたが、治療をするのにも体力が必要で十分な結果は得られず、途中で断念しました。
私はというと、出産と重なり、叔母の病状を知ったのは夏のことで、ステージも伏せたまま母が伝えてくれました。
ウィッグもプレゼントしたのは、この時あたりです。
病状を知ってからは、可能な限りLineでビデオ通話をしていました。秋から年始あたりでしょうか。とにかく赤ちゃんを見てもらおうと。
叔母は子ども服を中心に取り扱う服飾関係の仕事に就ていたので、小さい子どもが大好きでした。
2月に関西へ寄った時は、インフルエンザが流行しており面会も一度だけしか行くことができませんでした。
この日が最後の会話でした。随分と痩せていて、会話もポツポツ、それでも赤ちゃんの動画を撮ろうと一生懸命でした。
山陰の自宅へ戻り、携帯電話を支えるのがしんどいと聞かされ、Lineで画像を送るも返信はありませんでしたが、既読がつくだけでも嬉しかったかな。
最後の会話から2週間ほどでしょうか。
母から目が半開きで呼吸もいつもと様子が違う…と聞かされ、再び関西へたどり着いた時には、旅立っていました。
告知から1年で旅立ちました。
どう接していれば、良かったんでしょうか。
もっと赤ちゃんに触ってほしかったし、服も作ってほしかった。つい最近まで、飲んだり食べたり笑顔だったのに。誰もが50代で亡くなるなんて想像していなかったし、もっともっとしぶとく生きるつもりだったよね。
月日が経つにつれ痩せ細っていく姿、つまり死に近づいている状況を受け入れ難かったのかな。
本人は生きる意志が最後まであったので、1人で住んでいた家には、服飾のたぐいがいっぱい。既成品や手作り、布地や糸、ホントにいっぱい。見るたびにつらい。
どうしたらいい??
天国で沢山作ってよ。それでも余るよ。
もっとこの子の成長を見守ってほしかった。
どうして生と死が重なってしまったのかな。私、叔母孝行してないや。