お別れ
以前、記事をかきました。
退院してから再入院し、叔母はかえらぬ人となりました。
ガンでした。
腹痛や排泄障害を訴えたのが、およそ1年前。内科や胃腸科、婦人科を転々としたそうです。検査といっても結果が伝えられるまで2週間。ようやく原因を突き止めた時には、訴えから1ヶ月は経過しており、婦人科の医師から
「卵巣ガン ステージIII」
宣告されたのは去年の春だったそう。
手術療法・薬物療法(抗ガン剤)・放射線療法がいまの日本の三大ガン治療方です。
まず手術を試みましたが、腸まで転移しており除去不可との判断のため、通院しながら抗ガン剤治療へ踏み切ったのは夏のことでした。
副作用で髪が抜けていくので、ウィッグをプレゼントしました。治療を続けながら、社会復帰してね!と。
しかし、秋も終わりに近づくにつれ、食べ物を口に入れることができなかったようです。自宅で腹痛に見舞われ、入院し再手術を受けました。腸閉塞でした。ステージIIIからⅣへ進行していました。
以降、食べ物を口にすることなく、点滴で栄養をまかない、トイレは可能な限り自力で済ませていました。
と同時に、抗ガン剤治療を続けていくのが困難になり治療は打ち切りに。親族には春までもつかもたないかと伝えられたそうです。
親族と本人からの要望で代替治療ものぞみましたが、治療をするのにも体力が必要で十分な結果は得られず、途中で断念しました。
私はというと、出産と重なり、叔母の病状を知ったのは夏のことで、ステージも伏せたまま母が伝えてくれました。
ウィッグもプレゼントしたのは、この時あたりです。
病状を知ってからは、可能な限りLineでビデオ通話をしていました。秋から年始あたりでしょうか。とにかく赤ちゃんを見てもらおうと。
叔母は子ども服を中心に取り扱う服飾関係の仕事に就ていたので、小さい子どもが大好きでした。
2月に関西へ寄った時は、インフルエンザが流行しており面会も一度だけしか行くことができませんでした。
この日が最後の会話でした。随分と痩せていて、会話もポツポツ、それでも赤ちゃんの動画を撮ろうと一生懸命でした。
山陰の自宅へ戻り、携帯電話を支えるのがしんどいと聞かされ、Lineで画像を送るも返信はありませんでしたが、既読がつくだけでも嬉しかったかな。
最後の会話から2週間ほどでしょうか。
母から目が半開きで呼吸もいつもと様子が違う…と聞かされ、再び関西へたどり着いた時には、旅立っていました。
告知から1年で旅立ちました。
どう接していれば、良かったんでしょうか。
もっと赤ちゃんに触ってほしかったし、服も作ってほしかった。つい最近まで、飲んだり食べたり笑顔だったのに。誰もが50代で亡くなるなんて想像していなかったし、もっともっとしぶとく生きるつもりだったよね。
月日が経つにつれ痩せ細っていく姿、つまり死に近づいている状況を受け入れ難かったのかな。
本人は生きる意志が最後まであったので、1人で住んでいた家には、服飾のたぐいがいっぱい。既成品や手作り、布地や糸、ホントにいっぱい。見るたびにつらい。
どうしたらいい??
天国で沢山作ってよ。それでも余るよ。
もっとこの子の成長を見守ってほしかった。
どうして生と死が重なってしまったのかな。私、叔母孝行してないや。